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研究会ブログ
2021 コーポレートガバナンス研究会
第9回 英・米のコーポレートガバナンス改革
Q&Aセッション
Q01:英米のコーポレートガバナンスの歴史を包括的に説明頂きありがとうございます。英米の歴史と日本のコーポレートガバナンス論との相違を感じましたので、以下コメントさせていただきます。
英国のコーポレートガバナンス改革の為の各委員会の発足のきっかけは、企業不祥事・役員の高額報酬の批判・ステークホルダーへの配慮等の社会的要請に対応するためであったこと。米国置いても、粉飾決算・高額報酬等への対応としてのコーポレートガバナンス改革が行われてきていると理解しました。他方、日本は企業価値増加、その一環として役員報酬のインセンティブ(ストックオプションの付与)が大きな目的とするコーポレートガバナンスなっているように見え、英米の歴史との相違を感じます。 
 コーポレートガバナンスが企業価値とコーポレートガバナンスの相関関係は立証されていないといわれますが、2010~2020年の10年間の各市場の時価総額の増加率を見ると、NYSE/東証/ドイツは1.5倍、英国は0.9倍で、東証は遜色のない伸び率を示しコーポレートガバナンスの相違による影響は見られません。大きく異なるのは、ハイテク新興企業が多いナスダック市場が3.5倍の伸び率でその中でもGAFAMの5社の伸びが凄く、ナスダック市場の時価総額の42%を5社が占めています。
結局、日米の証券市場の時価総額の格差は技術革新の差及び技術革新を育てるベンチャーキャピタルの規模の差にあるように見受けられますが、先生のお考えを教えてください。

A01:ある特定の10年間について株価の動向を云々することは難しいです。これについてはQ&Aセッションの際にグラフを示して説明します。IT、バイオ等の技術革新の激しい世界で成功している企業が高い価値を生んでいます。コーポレートガバナンスとは、いつも強調していますように、経営者から優良な経営を引き出すのが取締役会のガバナンスです。したがって経営力あってのガバナンスであり、ガバナンスあっての経営力です。技術力を付加価値の生産に結び点けるのが経営力です。1980年代には世界的な技術力を誇った日本企業が、バブルの破裂により失われた10年、20年、そして30年に突入し世界での地位を落としているのは、私は日本のガバナンスと経営力の相乗効果-どちらも激しいグローバル競争には適合していないーによるものだと考えています。先進国は、20世紀末からのグローバリゼーションに合わせてガバナンス改革を進めてきましたが、日本の改革はキャッチアップするには遅すぎたと思います。ガバナンス改革、「遅れた20年」です!しかし、やらなければなりません、ガバナンス改革も、もちろん経営力改革も。(若杉敬明)

第1部 英国のガバナンス改革
Ⅰ 第2次大戦後の内閣の歴史:社会主義の労働党と資本主義の保守党が交互に政権を担った
 - 労働党のアトリー内閣:1945年~1951年の間;石炭、電力、ガス、鉄鋼、鉄道、運輸などを国有化
 - 保守党のチャーチル内閣、1951年、政権を奪回:1953年、鉄鋼や運輸などの産業を民営化
 - 労働党のウィルソン内閣、1964年、政権を再奪回:1967年に鉄鋼や運輸などの産業を再び国有化
 - 第2次ウィルソン内閣:1975年、自動車産業を国有化
 - 労働党キャラハン内閣:-1977年、航空宇宙産業を国有化

Ⅱ 英国病と鉄の女
1 「ゆりかごから墓場まで」
-労働党は、産業の国有化とともに社会保障制度を充実
 1946年 国民保健サービス法(国民が原則無料で医療を受けることが出来る)、国民保険法(国民が老齢年金と失業保険を受け取ることが出来る)
 1948年 国民扶助法(政府が生活困窮者を扶助)、児童法(政府が青少年を保護)を制定
 1960年代以降、イギリスの経済は停滞
・充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策によって社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生等の経済・社会的な問題が発生
 1960~70年代、労使紛争の頻発と経済不振・低成長のため、西欧諸国からヨーロッパの病人(Sick man of Europe)と呼ばれた ⇨ 日本では英国病と呼んだ

2 「鉄の女」の登場
-1979年総選挙、保守党が勝利
 ・5月、サッチャー内閣が成立⇒サッチャリズム
 ・マーガレット・サッチャ-:「ゆりかごから墓場まで」を打ち砕き自由主義の正統性を証明し、「鉄の女」と称された
 ・国有企業の民営化、金融引き締めによるインフレ抑制、財政支出の削減、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推進
 ・これらの政策により英国病の症状は次第に克服されていった。しかし、サッチャー在任中は、不況が改善されず、失業者数はむしろ増加、財政支出も減らなかった。さらに、反対派を排除する強硬な態度もとった。在任中も退任後も、英国内では、毀誉褒貶が相半ば!

3 英国病の克服
・メージャー内閣(1990-1997):サッチャー辞任後の後継者
 ・労働党が政権を奪回しブレア内閣(1997-2007)が成立
  -サッチャー内閣の基本路線を踏襲しつつも、是正する政策を実行⇒第三の道
  -若さや活気などをイメージさせる「クール・ブリタニア」という標語でブランド戦略を推進
  -悪い・老いた印象の国⇒良い・若い印象の国へ脱却
  -イギリスのGDP:1992年~2008年、プラス成長に転換
  -1998年、サッチャー内閣が解消できなかった財政赤字を黒字に転換
 ・2001年、ブレア内閣(1997-2007)によって「英国病克服宣言」
 ・現在、イギリスは英国病を克服したと認識されている

4 英国企業の業績低迷と経営者不祥事(1980年代)
世界的に貿易の自由化や金融自由化が進む中、サッチャリズムのもと企業の民営化が進められた。厳しい競争環境に置かれた英国企業では、長引く経済不況の下で、業績不振とともに経営者の不正が頻発した。
①ギネス事件(1986)
 -イギリスのビール会社ギネス社がデステラーズ社に対する企業買収するに当たって、ギネス社は自社株の株価を上げて有利に進めようと自社株の買い集めに奔走したという事件
 -オリバー・ストーン監督の映画「ウォール街」のモデルとなった米国の投資家アイバン・ボウ スキーがギネス社と結託して暗躍した事件
②ブルーアロー事件(1987)
 -NWBの投資会社County NatWestの従業員がManpower社の買収資金を賄うための増資に失敗したことを隠蔽した事件
③ポリーペック・インターナショナル事件(1990)
 -中小の繊維会社であったが80年代に急成長しFTSE100銘柄入りを果たしたが、巨額の負債を抱えて倒産
④BCCI事件(1991) Bank of Credit and Commerce International
 -1972年に創立して20年足らずの間に世界78カ国に400以上の支店を擁し250億ドルもの資産を有していたが、1991年に経営破綻した事件
⑤マクスウェル事件(1992)
 -メディア大手のマックスウェル・コミュニケーション及びミラー・グループを所有していたロバート・マックスウェル氏が、自らが所有する企業の年金受託者理事長の地位を利用し、年金資産を投機に流用した事件。流用先が破綻したため、多くの従業員が年金を受領できない事態に陥った

5 コーポレートガバナンス改革始動
 ・上述のような企業不祥事に加えて、法外な役員報酬やアカウンタビリティの欠如が指摘され、企業経営に対する批判が高まった
 ・一般投資家の間でもCEOに対する取締役会の監督が不十分との不信感が高まった
 ・こうした事態を受けコーポレートガバナンスに対する関心が高まり、キャドベリー委員会が誕生し、コーポレートガバナンス改革の道を歩むことになった

Ⅲ 英国会社法の会社機関
・株式会社の起源はオランダと並び英国にあるが、それがゆえに制度は原始的でわが国会社法の機関構成とは異なる。以下簡単に特徴を紹介する。歴史的に英国では会社の多様性を容認するとともに重視し、機関構成に関しては会社の定款自治に委ねている。以下は公開会社についての機関の紹介である。
 ・株主総会および取締役会は定款の定めによる
 ・公開会社は、役員として取締役1名以上と総務役( a company secretary)を置かなければならない。
 ・社員総会(株主総会)と取締役会
  -社員総会:あらゆる権限を有している
  -取締役会:法定機関ではなく附属定款に基づいて設置される任意機関である。取締役の中から業務執行取締役が選任され、附属定款に基づき社員総会から経営権を移譲される。その他の取締役は非業務執行取締役( Non-executive Director)である。
 ・単層型取締役会制度 Unitary Board
  -取締役会は業務執行を監督する機関として位置づけられているが、取締役会内部に業務執行機能(業務執行取締役)と監督機能(非業務執行取締役)の双方を持っているので、自己監査の構造になっている。それゆえ、業務執行に対する監督が形骸化する恐れを内包している。会社法も、業務執行取締役と非業務執行取締役の義務・責任を明確に定めていない。会社法は、非業務執行取締役を「業務執行に携わらない取締役」と定義しているだけである。
 ・独立取締役 (independent director)
  -現代のコーポレートガバナンスにおいて独立取締役は鍵となる存在であるが、英米あるいは独仏においても会社法で定められているわけではなく事実上の存在である。その起源は信託制度にあると言われている。

Ⅳ 英国のコーポレートガバナンス・コード改訂2018
1.従業員に対するエンゲージメント
・取締役会は、従業員向けの制度やその取り扱いが、企業価値と一致し、企業の長期的かつ継続的な成長を支えるものであるようにすべき
・従業員が何らかの懸念を抱えている場合、従業員側から声を上げられるようになっていることが望ましい
・アニュアルレポートで、従業員への投資と処遇の方針ついて説明すべき
・従業員とのエンゲージメントの観点から、取締役会は以下の施策から少なくとも一つ以上を選択することが求められる
・従業員から取締役を選任 ①自社の正式な組織として、従業員諮問委員会を設立 ②従業員とのエンゲージメントを担当する社外取締役の設置 ③上記の施策を全く取らない場合、自社が行っている施策およびその有効性について説明する ④報酬委員会は、従業員の報酬制度や関連するポリシー等をレビューし、念頭に置いた上で、経営者報酬ポリシーを策定するべきである  ⑤  報酬委員会は、ペイレシオ等の指標を用いて経営者報酬の説明すべき

2.企業文化
・取締役会は企業の目的や価値・戦略を策定するとともに、それらが企業文化と整合するように図るべき
・全ての取締役は、取締役としての品位ある行動と規範を示し、健全な企業文化の確立を推し進めるべき
・取締役会は自社の企業文化をモニターし評価する
・その上で、事業のポリシーやプラクティス・行動が会社の目的や価値・戦略と一致していない場合は、経営陣に適切な改善策を講じさせるべき
・報酬委員会は、経営者報酬ポリシーの策定において、インセンティブ制度や処遇の内容と企業文化との整合性もレビューするべき

3.取締役の後継者育成と多様性
・取締役会が、スキルと経験の適切な組み合わせと建設的な問題意識を持っていることを保証するとともに、多様性を促進するために、新鮮な取締役会を保つことが重要である。そのためには、取締役の後継者育成が計画的に行わなければならない
・委員会は、取締役会議長の在任期間について慎重に検討しなければならない。9年が一つの節目である
・指名委員会は、委員会の多様性を促進するために、計画的な後継者育成を強化しなければならない
・以上の取締役会のミッションを考慮すると、社外取締役による監視と評価が重要である
・指名委員会は、社外取締役が①取締役会に行った報告および②個々の取締役と行った対話の詳細を取締役会に報告する

4.ダイバーシティとサクセッション
・取締役および上級役員のサクセッションは、厳格かつ透明性の高い制度運営のもと、実績や客観的な基準に基づいて行われなければならない
・運営においては、ジェンダーや社会的・民族的背景、知識や個人的長所等におけるダイバーシティを促進しなければならない
・指名委員会は、計画的なサクセッションプランの運営、多様な人材パイプラインの開発等を担い、取締役および経営陣の選任において積極的役割を果たすべきである
・年次報告では、指名委員会の下記活動内容を報告するべきである
 (1)取締役選任のプロセスやサクセッション計画の運営状況、またそれらが多様な人材パイプラインの開発をどのように貢献しているか
 (2)外部コンサルタントによる、取締役会の実効性評価の方法と結果
 (3)ダイバーシティ・ポリシーと企業戦略との関係、およびポリシーに基づく施策の実施状況
 (4)経営幹部の男女比率

5.報酬
(1)報酬を決定する際には、広範な環境要因を考慮しつつ、会社の業績や個人のパフォーマンス、取締役の独立した判断と裁量を働かせるべき
(2)長期インセンティブの権利行使期間及び譲渡制限期間の合計は5年以上とする
(3)経営者報酬ポリシーや報酬プランを策定する際には、報酬委員会は以下の観点を踏まえるべき-
 -明瞭性:高い透明性を持ち、株主や従業員との効果的なエンゲージメントを促進すること
 -簡潔性:複雑な設計は避け、金額決定プロセスが分かりやすいこと
 -リスク:過大な報酬への社会の批判や、ターゲット型のインセンティブが不適切な経営判断を誘発しうるリスク等を把握し、リスク低減に努力すること
 -予測可能性:ポリシー策定時点つまり事前に、報酬の変動幅や制限・裁量の余地等が定められていること
 -業績とのバランス:報酬と業績の関係が明確であること。業績不振時は報酬を支払わないあるいは引き下げること
 -企業文化との整合性:企業文化と一致した行動を後押しするインセンティブ設計であること

《参考文献》
(企業統治):英国コーポレートガバナンス・コード改訂に見る「従業員重視」年金ストラテジー (Vol.268) October 2018(ニッセイ基礎研究所)
https://www.nli-research.co.jp/files/topics/59708_ext_18_0.pdf?site=nli

第2部 米国のガバナンス改革-前史-
 動画では時間の制約でアメリカのコーポレートガバナンス改革の全体について触れることが出来ない。しかし、コーポレートガバナンスのベストプラクティスとしてNYSEのCorporate Governance Standardを紹介する過程で、現在の米国のコーポレートガバナンスの基本的な構造は示した。ここではそれに至るまでの米国の企業史とコーポレートガバナンスの変遷を示す。

1.第二次大戦後の繁栄-Pax Americana-
 米国では第二次大戦後の1950年代から60年代にかけて、大戦中に開発された多くの技術が民間に開放され、企業は活性化し経済が繁栄した。そのピークが1960年代の半ばであった。アメリカではGolden Sixties(黄金の60年代)と呼ばれてきた。大型の自家用車が普及し、各家庭は電化製品であふれた。文化面では、ハリウッド映画が全盛を極めポピュラーソングも任期を呼んだ。マリリン・モンローやエルビス・プレスリーはまさにこの時代の寵児である。連邦政府が州間高速道路網の構想を打ち出したのも1950年代である(Freewayと呼ばれるハイウエイ自体は自動車が普及した1920年代から建設が始まっていた)。自動車道路網が建設されたのもこの時代であった。州政府は税金で潤い州立大学を充実させた。その結果、ハーバード大学を始めとする東部の名門私立大学(アイビー・リーグ)ですら財政難に陥り、寄附と引き換えに、高度成長路線を走り始めた日本企業から多数のMBA生を受け入れた。

【参考】-株式市場の動き;Wall Street Rule
・「投資先企業の経営に関して不満があれば、その企業の株式を売却することで不満は解消される」という考え方
・米国で初めて登場したコーポレート・ガバナンス(企業統治)の方式 ➡ 企業に対する投資家の評価を、株式市場における株式売買を通じて経営者に伝えた。「これから伸びると予想できる会社の優良株はブルーチップと呼ばれた。

【参考】Ralph Nader氏の社会活動
1934年レバノン系の移民の子としてコネティカットに生まれたネーダーは、弁護士として教育を受け、60年代から70年代にかけてアメリカの消費者運動の旗手として名を馳せた。1985年に発表した「Unsafe at Any Speed」でゼネラルモーターズの欠陥車を告発し、自動車業界に製造物責任を負わせる安全規制立法を成立させて、一躍有名になった。以後、数多くの消費者保護立法を成立させ、Occupational Safety and Health Administration (OSHA)やEnvironment Protection Agency (EPA), Consumer Product Safety Administrationなど政府規制機関の設置を促した。また、消費者運動の組織化にもつとめ、60年代後半に「ネーダー突撃隊」とよばれる企業告発グループをいくつもつくった。その後、二大政党制を批判し、第三の政党の確立を目指した。1996年、市民運動を基盤として「緑の党」から立候補したのを皮切りに、2008年まで毎回大統領選挙に立候補した。

2. 1960年代:第三次M&Aブームとコングロマリットそして多国籍企業
 1960年代になると繁栄がピークに達し、企業は成長機会を見つけるのに苦労するようになった。そこで行われたのが、自業種・異業種を問わずM&Aによる企業統合により企業を成長させる手法である。その結果誕生したのが、関係のない事業の集まりであるコングロマリットである。非効率な経営のせいで株価が本来価値より安い企業を買収し、その企業の経営改革により企業価値を創造する経営戦略である。その結果、1960年代は、1900年前後の水平的統合の第一次M&Aブーム、第一次大戦後の垂直的統合の第二次M&Aブームに続く、第三次M&Aブームの時代になった。水平的統合やす直的統合が進んでおりこれらを進めれば独禁法に触れるということで、異業種との統合に目を向けたのである。1960年代は、国内に目を向ければコングロマリット化の時代であったが、国外にビジネス機会を見いだす時代でもあった。「多国籍企業」はまさにこの時代を象徴する言葉であった。

3.1970年代:多国籍化が生んだ不正会計と監査委員会の設置
 1970年代は多難な時代であった。オイル・ショックとそれに続く不況の中、ニクソン大統領再選委員会への違法献金、ロッキード事件、ガルフオイル事件など多国籍企業による外国の政治家などへの贈賄・不正献金事件が発生。これら社会倫理・株主のリスクに関するガバナンス問題(経営者をコントロールできていない!)と同時に、投資家の観点からのガバナンス問題も問われ始めた。 経営者が株主・債権者を欺いていることを機関投資家が発見するようになったのである。さらに、ペン・セントラル鉄道の粉飾決算・倒産や、ロッキード社の経営危機に際して、粉飾決算やインサイダー取引が行われていたことが発覚し、その結果、社外取締役会の必要性に対する認識が高まった。
 多国籍企業は欧州にも進出したが、産業がより遅れているオリエントやアジアの方が収益機会としては優れていた。しかし、これらの地域は賄賂の世界でもあった。企業は賄賂の資金を創る必要があったが、先進国では当然、賄賂の勘定は認められていない。不正な会計で賄賂資金を捻出するしかなかった。1976年に明るみに出たロッキード社による世界的な大規模汚職事件もこの流れの一つである。日本でも全日空がこれに巻き込まれ、田中角栄元首相が逮捕されるなど政界が揺るがす大事件が起きた。企業の会計不祥事は、米国企業のガバナンスにも一石を投じ、SECの始動によりNYSEが企業に監査委員会の設置を要請することになった。これにより、企業はウォール・ストリート・ルールに加えて、企業の内部から社外取締役が加わる監査委員会の監視をうけることになった。

4 1980年代:コングロマリットの再編が引き金になった第四次M&Aブームのコーポレートガバナンスへの貢献
 コングロマリットは、新しい結合による企業価値の創造をもたたすものであったが、何年かするとその価値も出し切ってしまい、むしろ新たな非効率の源泉になってしまい、いったん買収した企業を売却せざるを得ないという事態を生んだ。クライスラーの経営破綻もその良い例である。しかし、この件は、政府が債務保証を与えたことから、なぜ民間企業の危機を政府が救うのかと世論を沸かした。1970年代から80年代にかけて、非効率になったコングロマリットをリシャッフル(再構成)するニーズを生み、再びM&Aが活発になり第四次M&Aブームがビジネス界を賑わすことになった。この過程でM&Aにからむインサイダー取引事件も頻発した。このブームの特徴は、インベストメントバンクがM&Aの仲介をビジネスとするようになり(それ以前は、ビジネスと言うよりむしろ顧客サービスであった)、自らの利益のためにM&Aの機会を創出し、大型M&A、敵対的TOB、LBOなど新たな範疇のM&Aを生み出した。敵対的M&Aの横行で、経営者は、自らの経営が株式市場を通して敵対的買収の危険にさらされていることを実感背せざるを得なくなり、敵対的M&Aは経営者に対する規律付けというガバナンス機能を果たした。一方で、敵対的買収を防ぐために、多くの企業でポイズン・ピル(毒薬条項)などの買収防衛策が採用されるようになった。これは、CEOが自己の利益のために、CEOの座にしがみつくことを許すもので、株主の利益を損なう可能性があった。そのことから、株主と経営陣の対立が明確になり、社外取締役の導入が促進された。いずれにせよ、M&Aをインベストメントバンクが主導するようになり、不健全な(経済・経営的な意味のない)M&Aを横行させることになった。世間も投資家もそれに気づき、M&Aブームは急速にしぼむことになった。繰り返しになるが、敵対的M&Aは経営者に規律を与え経営を改革させる刺激にもなり、コーポレートガバナンスの進展を促した。監査委員会の設置とともに入ってきた社外取締役は、TOBが仕掛けられることになった理由を考える過程で自社の経営を客観的に見る機会を与えられたことから、社外取締役と経営陣の対立を生み社外取締役の増加をもたらすことになり、少なからずコーポレートガバナンスの進展に貢献することになった。

5 1990年代:機関投資家と社外取締役
 1990年代に入ると第四次M&Aブームへの反省とグローバル市場からの圧力を受けてアメリカ企業のリストラが進んだ。企業は新しい環境に対応するために変わらなければならない。その時の合い言葉は、選択と集中、コアビジネスの強化であった。これを実行に移すために、再度、M&A活発化の機運が高まった。M&Aを推進するために、多くの企業で ポイズン・ピルを撤廃する株主総会決議がなされた。エイボンレター後、1990年代初頭には、GM、IBM、アメリカン・エキスプレスなどの大企業で、投資家の後押しを受けた社外取締役によってCEOが交代させられるという事件も起こった。1990年代のアメリカでは機関投資家と社外取締役の活動を通じたコーポレートガバナンス体制が整備されていった。。「社外取締役による取締役会のガバナンスガバナンス」と「CEOをトップとする執行役員のマネジメント」という分業と対峙の構図が顕著になり、経営者もそれを受け入れつつある。

6 企業年金の普及と株式市場
 あらためて時代を遡ると、第二次大戦後、軍事技術の民間への転用は、民間企業に新しい能力持つ人材に対するニーズを生んだ。企業は、新しい技術に追いつけない恒例の従業員に退職を促し、新しい技術を持つ若い世代を雇用するために企業年金を導入した。つまり、高齢者を退職させ、新人を採用し定着させるインセンティブとして利用されたのである。その後、1950年代には企業年金は広く普及することになった。企業年金というと、現在は、確定拠出企業年金と確定給付企業年金とが知られているが、初期の企業年金は確定給付年金であった。確定企業給付年金では、企業は従業員の在職中、サラリーの一定額分を掛け金として拠出し積み立て、それを運用して元利を退職後の年金給付の原資とする財政方式である。したがって、大企業の企業年金は多額の運用資金を保有しているので、機関投資家として強大な力を有している。ただし、ERISA(従業員退職所得保証法)により、リスクに見合った合理的かつ効率的がなされるよう企業年金の運用者には重い受託者責任が課されている。

 上述のような経済環境の変遷の下、企業年金の資産運用も大きく変化してきた。1950年代から60年代にかけては、企業成長とともに活況な株式市場において、ウォール・ストリート・ルールとよばれる手法で株式を売買するのが一般的であった。

注)ウォール・ストリート・ルールとは『投資先企業の経営に関して不満があれば、その企業の株式を売却することで不満は解消される』という考え方。 米国で最初に誕生したコーポレート・ガバナンス(企業統治)の方式であり、投資家としての意見を、株式市場を通して間接的に経営者に伝えるということを意味する。(企業年金連合会「用語集」より)

7 企業年金のシェアホルダー・アクティビズム
 1974年のエリサ(Employee Retirement Income Security Act)成立以後は、当時確立された現代ポートフォリオ理論(MPT:Modern Portfolio Theory)に基づき分散ポートフォリオ(市場ポートフォリオ)を長期保有する投資戦略が普及し、インデクスファンドを持ち続ける資産運用が基本になっている。しかし、M&Aが盛んな1980年代はM&Aに便乗する運用も盛んに行われたと言われる。M&Aにおいては、企業を買収する側の株式より買収される側の株式の方が、値上がり益が大きいので、買収される株を見つけていち早く買うという手法である。しかし、バブル的M&Aブームが社会的批判を浴びるようになると、再び分散投資・長期保有に立ち戻ることになった。しかし、長期保有ということで売買を行わない場合、ウォール・ストリート・ルールのように投資家の意思を経営者に伝えることが出来ない。そこでエイボン社が1988年、労働省にお伺いを立てたところ、これまで企業年金の議決権行使を禁じてきたが、「今後は企業年金の議決権行使も資金運用責任者の(ERISAで定める)受託者責任とする」というレターが労働省から返ってきた。これをエイボン・レターという。
 米国各州の会社法では、株主総会での主たる決定事項は株主の代理人たる取締役の選任であることから、企業年金はじめ年金基金は積極的に取締役とくに独立取締役の選任に積極的に関与し、コーポレートガバナンスに大きな影響を与えることになった。これをShareholder Activism(Activist Shareholder)という。

                                       (若杉敬明)

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