日本のコーポレートガバナンス改革:その1 -監査役制度の変遷- |
一般社団法人 日本コーポレートガバナンス研究所 理事 若杉 敬明 |
第一部 日本の監査役制度-ドイツの監査役制度と英米流の取締役会制度の狭間で- 旧商法および新商法で監査役に与えられた権限は、経営監督権限と会計監査権限である。監査とは監督&検査からの造語であると言われる。監督とは経営者に対して事前に指図することであり、検査とは経営に対する事後の検査である。英語では、auditは通常会計検査を指し、internal auditというと内部で行われる会計検査を言い、外部の公認会計士が行う会計検査はexternal auditあるいは単にauditという。なお、最近の米国では、internal audit部門は経営検査も行うようになっている。 1950年(昭和25年)英米流の取締役会制度が導入され、経営監督は取締役会による自己監査が原則になり、監査役の職務は会計監査が基本となった。監査役の権限は大きく縮小されたわけである。しかし、証券取引法(現在の金融商品取引法)との整合性を図るために、監査役に再度業務監査権限が付与された。これにより、業務執行に対する取締役会の監督権限と監査役の監督権限という二重性が固定され現在に至っている。しかし、取締役会の自己監査が形骸化していったことから、その後、粉飾決算や企業不祥事などが社会的な問題になる度に、監査役の権限強化と地位強化(独立性の確保)とでガバナンス問題の解決が図られてきた。明治時代に定められたドイツ流のガバナンスシステムが生き続けていたのである。新しいガバナンスシステムの導入には、委員会等設置会社の導入を決めた2002年(平成14年)商法改正を待たなければならなかった。 このように日本語の監査という語は旧商法以来1950年商法改正まで、「経営監督+会計検査」を意味していた。米国では、事前の経営監督は「取締役」が行い、事後の会計検査はinternal auditorおよびexternal auditorが行う。現在の米国の取締役会にはaudit committeeが必置機関であるが、その役割は、事後の検査人であるinternal auditorおよびexternal auditorの独立性を検証することであり、会計検査を行うことではない。話が込み入って来たが、本来の"audit"は明治以来日本で制度化されてきた監査役の「監査」とは異なり、経営者(CEO)の部下であるinternal auditorあるいは外部のexternal auditorが行う事後的な会計検査である。 ◆ 日本の監査役が米国の会社を訪問し名刺交換するとき、肩書きのAuditorをから低く見られる傾向があり、監査役はプライドを傷つけられることがよくあったと言われる。日本の監査役は株主総会で選ばれる役員でむしろ社長より上の立場であるのに、auditorがCEOの部下である米国の会社ではそう見てくれないので、監査役のプライドが痛く傷つけられるのである。米国には日本のような監査役制度はないのである。audit=監査ではないのである。もっとも日本の会社のシステムが知られるようになってきて、最近は正しく理解してくれるアメリカ人もいるようである。 1950年の商法改正で米英の取締役会制度を導入したときに、監査役の制度を整理すべきであったのに、そのまま残したために紛らわしいことになってなってしまった。近年のコーポレートガバナンス改革の流れにおける経営監督は取締役の役割である。取締役会にaudit committeeがあるが、その役割はauditorsの独立性を事後的に検証することである。自ら会計検査をするわけではない(それゆえaudit committeeが行う財務諸表のチェックはauditとは呼ばずにreviewと呼ばれる)。 日本の監査役は、経営監督権限と会計監査権限とを与えられてスタートした。異質な二つ機能を担った日本独特の制度であると言われている。監査役の監査はauditと翻訳してはいけない、あるいはauditを監査と翻訳してはいけないのである。 Ⅱ 監査役会制度の変遷 1890年旧商法制定(明治23年) ◆ ガバナンスの観点から興味深いのは、従来の商法では、監査役が代行していた株主のガバナンスが、株主自身の戻されたと見ることができることである。1945年から47年に掛けて「侵略戦争の経済的基盤になった」として財閥解体が行われた。財閥が保有する株式は、「証券民主化」のかけ声の下、給与などの形で国民の手に渡り、個人の持ち株比率は一時60%を超えたと言われる。ところが、当時の国民は貧しかったので株式を手放さざるを得なかった。いわゆる乗っ取り屋などがそれを買い占め、買い占め屋は企業にそれを持って行き高値で買い取ることを要求する(米国のgreen mailer)という事件が相次ぎ企業は悲鳴を上げた。そこで、財閥解体とともにとられた企業の株式保有禁止が解禁された。企業の株式保有は財閥により財閥企業間の循環投資や持ち合いに利用されていたためである。これにより企業間の株式持ち合い急速に拡大した。ちなみに、これは第一次の持ち合いブームであり、第二次ブームが1960年代OECD加盟後に起こり、日本の株式持ち合い体制が定着した。 ◆ 本来であれば、ガバナンス体制の強化のために英米型の取締役会制度の導入が図られたのであるが、動じに行われた財閥解体・証券民主化そして企業の持株禁止解除という諸措置により、本来の株主のガバナンスが希薄化されるというまったく逆の結果になったことはまことに皮肉な結果であり、日本にとって不幸な結果である。とくに、証券民主化がむしろ国民が株式から目を背ける国民風土を形成したことは現在に至って深刻な影響を与えている点は深刻である。 ★ 1965年(昭和40年)、山陽特殊製鋼倒産事件(倒産により粉飾決算が発覚)が発生し取締役会による経営監督の機能不全が露呈されたことから、商法が改正された。
★ 1976年(昭和51年)戦後最大の疑獄事件「ロッキード事件」が発覚した。米ロッキード社から日本の政界などへ流れた資金をめぐり、田中角栄元首相ら政治家、丸紅、全日空の幹部ら計16人が受託収賄、贈賄などの罪で起訴された。さらに1978年(昭和53年)には、ダグラス・グラマン事件等の会社が不正支出をしていた不祥事が明るみに出された結果、このような不正を会社が自治的に防止できるような措置を講ずるため次のような商法改正がなされた。
★ バブル崩壊後の1991年(平成3年)6月に発覚した証券・金融不祥事件(証券会社の一部の投資家に対する損失補填、金融機関の偽造の預金証書を担保とする融資)を契機として、監査制度を充実する改正がなされた。
★1999年 東証 ①「コーポレートガバナンスの充実について」を上場企業に要請するとともに、②決算短信でコーポレートガバナンス施策そ開示を要請することを要請。 2001年改正(平成13年)施行は2005年(平成17年)5月1日から |
若杉 敬明 |
2021.12.1/2019.10.10 |
TOP