株式会社の歴史
Ⅰ 株式会社の誕生:重商主義時代(16世紀~18世紀)
1600年 イギリス:東インド会社(EIC:East India Company)設立
EICの組織内で、航海1回ごとに個別の企業が設立され、航海が成功して船が港に戻ると、個別企業は解散された。航海の収益で元本および利益を出資者で山分けする仕組みであった。その意味でEICは個別航海への投資家の集まりに過ぎなかった。
1602年 オランダ:東インド会社(VOC:Verenigde Oost-Indische Compagnie)設立
世界最初の株式会社とされる。と呼ばれる。1回の航海単位での投資は、略奪や難破などで、投資家にとってリスクが大きかった。そこで、貿易会社という企業を作り、そこに出資者を募ることで、1回ごとではなく、複数回の航海で得た利益が出資者に還元され、投資家のリスク減らす分散投資のシステムがとられた。
投資家は、個別の航海に投資をするのではなく、VOCの株式を購入することにより、複数の航海に投資をすることになるので、分散投資によりVOCのリスクが減少し利益が安定する。リスク減少とともにVOCは負債調達が可能になり、レバレッジを効かせることができるので、投資利益率が高まる。これらを考慮して株主の有限責任制が導入された。
株主の有限責任制により、VOCが世界初の株式会社とされる。一時的な企業の集合体だったEICも永続的な組織へと姿を変え(1657)、 「破産宣告者に関する布告の条例」(1662)の下、有限責任制が認められEICは現代的な株式会社へと姿を変えた。イギリスの東インド会社の方が早く誕生したのに、オランダの東インド会社が株式会社の始祖とされるのは株主の有限責任制のゆえである
世界の株式市場
オランダ:1602年 東インド会社設立に伴い、その株式を取引する場所としてアムステルダム証券取引所がオランダに設立された。世界最初の証券取引所であった。
アメリカ:1792年 5月17日 ニューヨーク証券取引所の創設を決めた24人の仲買人による「すずかけ協定」(Buttonwood Agreement)が締結された。取引所が出来たが、組織化されたのは25年後の1817年3月8日“New York Stock & Exchange Board”と命名された。定款が制定さされ、議長が選出され組織化された。
イギリス:1801年 London Stock Exchange設立
日 本:1878年 第一国立銀行の株式を取引するために東京株式取引所が発足。ちなみに、第一国立銀行(1873)が日本最初の株式会社(現在のみずほ銀行)
Ⅱ コーポレートガバナンス前史-重商主義から資本主義へ-
ギリシャ語の動詞「kubernaein」を語源とするガバナンスは、国家や組織が行う統治を表す言葉である。Kubernaeinは「舵を取る」という意味で、そのプロセスに関与する人々が取る方向性や意思決定に関連している。国連では、「意思決定のプロセスと、決定が実行される(または実行されない)プロセス」と定義している。
https://ethical.net/glossary/what-is-governance/
1.重商主義下の株式会社の誕生
株式会社は、重商主義時代の16世紀から17世紀にかけて西欧で誕生した。イギリスおよびオランダの東インド会社、ハドソン湾会社(英)、レバント会社(英)、その他の勅許会社にまで遡ることができる。当時の株式会社は、株主が資金を出し、船と船員を調達して西欧の工業製品・工芸品などを積み込み、アジア・アフリカ等に行き現地の毛皮・染料・香辛料等々と交換して持ち帰り換金した。リスクも大きいが利益も大きいビジネスであった。その事業を株主から引き受け管理したのが代理人、つまりGovernor以下の役員であった。株主と代理人との間には軋轢があったと言われており、依頼人(株主)と代理人という関係から生ずるコーポレートガバナンス問題は500年以上も前から存在していたと言われる。
現代の株式会社の特徴は株主の有限責任制である。株主は出資者として株式会社の所有者の地位を与えられているが、株式会社が債務不履行の状態に陥っても、債務の履行のために追加出資する義務を負っていない。株主個人の責任は会社組織の責任から切り離されているのである。
1600年エリザベス1世治下のイングランドで東インド会社が設立された。それを追うように1602年イギリスのライバルであるオランダでオランダ東インド会社が設立された。オランダの東インド会社は株主の有限責任を前提とする有限会社であったのに対し、イギリスの東インド会社はそうでなかった。それゆえ、オランダ東インド会社が株式会社の始祖とされている。イギリスでは、1662年チャールズⅡ世により有限会社が認められ、1856年成立の会社法で株式会社の有限責任が制度化された。
2.新しい株式会社の誕生と資本主義の成立
18世紀後半、産業革命により新技術が開発され、工場制機械工業がそれまでの工場制手工業に取って代わった。大型機械による大規模生産が可能になり、企業は飛躍的に規模を拡大させた。いわゆる「規模の経済」の追求である。それにともない企業は多額の資本を必要とするようになった。重商主義時代の商人や工場制手工業の工場主が財をなしていたので、工場制機械工業の出資者として所有者になり、資本家層を形成した。ここに資本家が企業を所有し利益を追求する資本主義経済がスタートした。
大規模な工場の経営には専門的な能力が必要とされるので、資本家は自ら経営することはやめ、代わりにプロの経営者を雇うようになった。資本家の代わりに経営者を監督する取締役が置かれ、経営者は取締役のもとで経営をおこなった。19世紀になると各国で会社法が制定されるようになり取締役会制度が確立した。次第に力のある経営陣が取締役に昇格し、やがては取締役会メンバーの大半を占めるようになり、取締役と経営者の兼任が一般的になっていった。そのような体制の下で、株主と取締役/経営者という関係は重大な問題を抱えくすぶり続けていた。それが20世紀の後半コーポレートガバナンスとして問題にされるようになった。
このようにコーポレートガバナンスという問題は何世紀も前から存在していたが、その問題が明るみに出され一、コーポレートガバナンスという後で語られるようになったのは1970年代のアメリカにおいてである。以下そこに到るまでのアメリカの歴史を振り返る。
3.アメリカの企業略史
ボヘミアの作曲家ドボルザークは19世紀後半アメリカに移住した。そのアメリカで彼が作曲したのが最後の交響曲第9番(1893年)であった。それに先立ち、アメリカでは1848年カリフォルニアの小川で砂金が発見され、人々が金を求めて東部から西部へと大移動したGold rushの時代であった。それにともない中西部も開拓され穀物の生産が増加していった。人流・物流に合わせ鉄道輸送が高まり、鉄道の建設が進められたが、それを支えたのは製鉄業であり機関車などの製造業であった。それらを契機に産業革命が始まり、アメリカ経済は発展の一途を辿っていた。そのようなアメリカで発表されたドボルザーク第9番第2楽章は雄大な夜明けを思い描かせる出だしであるが、それはまさに新世界アメリカの息吹を実感した音楽家の表現だったのであろう。。
19世紀後半、産業革命が急発展し多数の企業(corporation)が設立された。しかし、移民による新世界の国アメリカでは産業の歴史は浅く資本の蓄積も集中も進んでいなかった。そこで資金調達を容易にする企業形態として発達したのが、多数の国民から少額の資金を集め巨大な産業資金にする株式会社であった。当然のごとくアメリカでは株式市場が発達した。
一般大衆は株式を保有していても会社の経営には疎い。20世紀前半、株式市場資本主義のアメリカでは、大規模株式会社の経営は経営者に委ねられるのが実態であった。1932年 バーリ=ミーンズは、「株主は、会社の所有者であるにも関わらず経営には関与せず、社外者として単なる投資家に留まっている」ことを実証的に明らかにし、この実態を「所有と経営の分離」(Separation of ownership and management)と呼んだ。そして、やがて経営が暴走し株主の利益が軽視されるであろうと警告した。
4.黄金の60年代のアメリカ
20世紀半ばにかけてドイツにヒットラーが現れ、ナチスがヨーロッパを戦場にしたが、結局はナチスに対抗する連合軍の勝利で大戦が終わった。戦場から遠かったアメリカは、戦火を免れ、逆に戦争で大きな利益を上げ、豊かな社会を実現することができた。その繁栄と平和はGoden Sixties(黄金の60年代)あるいはPax Americana(ナチスを倒したアメリカによる世界の平和)などと呼ばれた。
他方でこの時代はコーポレートガバナンスおよび経営のあり方に大きな影響を与えた。経営者が株主の利益のために行動することを促す様々な手法―ストックオプションなど―も利用されていたが、1970年頃までは、経営者に対する株主のコントロールは比較的緩やかであった。機関投資家が経営者に与える影響も無視できるほどであった。生命保険や企業年金などには持株制限があり、株式市場の機関投資家化は進んでいなかった。1970年代初頭までの株主構成は、個人株主が80%に対して、機関投資家は20%に過ぎなかった。
5.経営者資本主義
そこでは「経営者資本主義」(managerial capitalism)と呼ばれる考え方が浸透していた。株主も取締役も、経営は経営者に任せきりであった。経営者は、企業を従業員・取引先を含むコミュニティと捉え、 自らを多様な利害の調整を図る存在として位置づけていた。このような社会の資本主義は「厚生資本主義」(welfare capitalism)とも呼ばれた。、経営者はこのような思想の下で経営の意思決定を行っていたが、株主も取締役会もその思想を受け容れ、経営は経営者に任せきりであった。そこにコーポレートガバナンスが働いていたと考えるなら、現代の株主利益最大化の株式会社経営を求めるコーポレートガバナンスとはまったく異質のものであったと言えよう。これを支えたのが次のような株式市場における投資家行動である。
6.ウォールストリートルールWall Street rule:WSR
1950年代から60年代にかけては、企業年金などアメリカの機関投資家は、投資先企業とは「サイレント・パートナー」 (物言わぬ安定株主)の関係であり、「ウォールストリートルール」が形成されていた。これは、「投資先企業の経営や株価に不満があれば、経営には口を出さずに、黙って株式市場で株式を売却する」ことにより、 その不満を解消するという投資方針であった。言うならば、企業を評価はするが改善に向けて口は出すことはしないということで、企業経営そのものに対すしは受動的な反応とであった。「買われる会社は成長会社/売られる会社は非成長会社」という考え方である。ここにはコーポレートガバナンスがないという見方が多かったが、近年は、WSRが株価の情報性を向上させ、取締役会に新たな情報源を提供することで、取締役会がより効果的に企業を監視できるようになったという実証研究がある。受動的な抗議行動とは異なり、実際には経営の改善を促す情報発信として、効果的な武器であったとする評価である。株の売買により企業の評価情報を経営者に伝える明確なガバナンスとして位置づける見方である。
Bandon Chen, Lien Duong and Thu Phuong Truong, “The Wall Street Rule and Its impact on Board Monitoring,” 9th Conference on Financial Markets and Corporate Governance (FMCG) 2018
7.分散投資理論による株式市場ガバナンスの弱体化
1950年代から60年代の好景気によりアメリカでは資本の蓄積が進み、ファイナンスの実務が活発を極めるとともに、それに対応してファイナンス研究が進展した。ポートフォリオ理論により分散投資を基本とする長期投資が、機関投資家の基本戦略として推奨された。その結果、ウオールストリートルールは後退し分散投資が花形になり、ファンドマネージャーの個別株に対する興味は弱まった。機関投資家は、投資家からの受託者であったにもかかわらず、企業経営はプロの経営者に任せるという考え方で企業経営への関心を失い分散投資に専念した。最大の関心事は分散投資によって、ポートフォリオのリスクとリターンのバランスをとることであった。つまり、個別企業の経営に対するコーポレートガバナンスには無関心であった。
8.第三次M&Aブームの1960年代-コングロマリットと多国籍企業の時代-
1960年代は経済の繁栄を謳歌する中、経済は成熟し成長は鈍化してきた。市場の拡大は望めなくなり、経営者は企業買収などのM&Aに走った。しかも、2000年前後の第一次M&Aブームで水平合併が進み、かつ1920年代の第二次M&Aブームで垂直合併が行われており、既存の市場ではM&Aで成長する余地はなかった。そこで企業は異分野の企業とのM&Aに活路を見出そうとした。その結果、既存事業との関連性を問わず業績に問題があり株価が低迷する企業を探し出し、それらを買収し自社の経営能力で業績を改善し企業価値を上昇させようとした.その結果、事業シナジーが希薄な事業を寄せ集めた企業が多数出現した。例えば、自動車の発達で鉄道事業が先細りであった、ペン・セントラル鉄道は、パイプライン、ホテル、工業団地、商業用不動産などを手掛け多角化を進めた。それが多業種間にまたがる巨大複合企業であるコングロマリット(conglomerate)である。これこそ第三次M&Aブームの結果である。
他方、多角化に活路を見いだせない企業は海外市場に目を向けた。そのターゲットは第二次大戦で被害の少なかったオリエントやアジアの国々であった。市場の多角化である。その結果、多国籍企業が輩出した。60年代はコングロマリットと多国籍企業生成の時代であった。
9.アメリカ資本主義の矛盾が噴出した1960年代
ベトナム戦争は1955年11月~1975年4月にかけてインドシナ半島で勃発したせんそうであった。原因は、北ベトナムと南ベトナムの内戦であったが、アメリカや当時のソビエト(当時)や中国が参戦し、資本主義陣営対社会主義陣営の代理戦争となった。勝つ見込みもなく長引くばかりの戦争でアメリカは次第に関与を縮小して行ったが、結局20年間近く続き北ベトナムの社会主義陣営が勝利し、アメリカは撤退した。
勝てない戦争でアメリカの経済は疲弊し社会は退廃ブームに陥った。①ベトナム反戦運動が高まり企業のナパーム弾製造に対する批判の高まり、②公民権運動のなかでの黒人雇用差別に対する批判、③ラルフ・ネーダーらが指揮する消費者主権運土の中でのゼネラルモーターズの独占や自動車設計ミスに対する批判、④全米各地での公害問題に対する批判等などで社会は混乱した。政府の介入によって企業の非倫理的行動や非人道的行動を抑止すべきという観点から「ガバナンス」の語も登場した。アメリカ社会においは民間のことには、政府はなるべく口を出さないというのが基本的な考え方である。企業についても同様である。周知の通り会社法も州ごとに決められており、連邦政府は関与できない。ガバナンスの問題はくすぶったまま1970年代に入ることになった。→ この先は動画で!