JCGR 日本コーポレートガバナンス研究所

コラム

資本主義考-資本主義の成立から現代まで-

日本コーポレートガバナンス研究所
理事長 若 杉 敬 明

 資本主義とは、企業が、資本と労働との協働で財・サービスの生産・流通を担い、その過程で価値を創造し、資本と労働とに生活に必要な収入をもたらす社会システムである。歴史的には、資本の提供者と労働の提供者が別々に誕生したため、資本家階級と労働者階級とを生み出し両者の間に軋轢が生じたことから、資本家を否定する社会主義思想が誕生し、実際社会主義や共産主義を標榜する国家も存在している。現代では、多くの国において、個人が労働者であると同時に資本家である新資本主義の時代に入っている。一例をとると、日本では、皆保険制度のもと20歳以上の国民6700万人が公的年金に加入し保険料を納めている。そして保険料の積立金160兆円余の半分で国内外の株式を保有している。残りの半分は内外の債券に投資されている。個人が直接株式を保有しているわけではないが、立派に資本家である。以下、資本家階級、労働者階級が誕生し資本主義が確立するまでの歴史を要約して紹介する。

Ⅰ 封建時代(6世紀~15世紀末)

 封建制は中国および西ヨーロッパに存在したが、現代の資本主義につながる封建制は西ヨーロッパにある。中世前期、封建制は荘園制度とともに封建社会を形成していた。封建制とは、領主が、軍事奉仕と引き換えに国王から土地(荘園)を借り、農民から年貢を吸い上げる制度である。農民は荘園に縛り付けられた農奴であった。その後、国王が領主に対して荘園への不輸不入権を容認したので、荘園が独立国家化した。不輸不入権とは、領主が、国王による荘園内の課税や裁判を拒否できる権利であり、荘園は、国王であっても侵すことのできない領地になった。それにともない王権は弱体化し、大小の領地が王国のように分立する状況が続いた。

 他方、農業の生産性向上とともに家内制手工業が誕生した。農家が、農業の合間に副業として、自ら原材料や道具などを調達し、家内において手作業で商品を生産し、販売まで行う生産様式で「農村家内工業」ともいう。他方、西ヨーロッパでは11世頃から形成された都市において、商人が自治を獲得し都市貴族として支配を確立していた。そこに農村を離れた手工業の職人が集まり商人ギルドのもとで生産活動をしていたが、やがて手工業者の親方が商人ギルドから独立して同職ギルドを形成し商人ギルドに対抗するようになった。それとともに都市が発達した。

 11世紀末になると、イスラム教徒に支配された聖地イェルサレムを快復するという宗教的目的で十字軍遠征(1096-1270)が始まったが、その副次効果として経済がグローバル化し貨幣経済が誕生した。十字軍遠征に伴いイスラム圏との交易が始まり、東地中海岸での東方貿易が盛んになるという経済的結果がもたらされ、そこからヨーロッパの商業の復興、北イタリア諸都市の勃興という大きな変動が起きたのである。しかし、七次にわたる十字軍遠征は失敗に終わり、領主の多くが戦死し、領主制が崩壊した。領主を失ったことによりヨーマンリー独立自営農民)が台頭することになったのである。それとともに、キリスト教側の敗北によりローマ教皇や教会の権威が失墜し、11世紀~13世紀の中世盛期おいてヨーロッパ最大の領主だった教会が没落し力を失った。それに呼応するかのように、没落しかけていた国王は権力を回復した。

 なお、イスラム圏との交流は文化の面でも中世ヨーロッパのキリスト教世界に大きな刺激になり、12世紀ルネッサンスを経て、中世後期(14世紀~15世紀)のルネッサンスを生み出す契機となった。

 ちなみに、日本では、封建制は12世紀末(鎌倉時代)に始まり19世紀半ば(江戸時代)まで続いた。

Ⅱ 絶対王政の完成と重商主義 -初期資本主--(16世~18世紀中期)

 十字軍遠征失敗で疲弊した領主は加護を求めて国王に領地を寄進し、力を回復した国王の臣下になった。その結果、ヨーロッパでは国王による中央集権化が進み、16世紀に絶対王政が確立した。

 中世末のイギリスでは、フランスとの百年戦争( 1339~1453)、内乱であるバラ戦争(1455~1485)によって封建貴族の多くが没落し、騎士階層や商人・富農などから出たジェントリと呼ばれる地主階級が勢力を確立した。この間、バラ戦争の混乱を収拾して登場したテューダー朝の始祖であるヘンリー7世が王位(1485〜1509)に就き星室庁裁判所を改組して治安の維持に努めるなど、絶対王政の礎を築いた。ヘンリー7世は官僚としてジェントリを重用して、封建貴族を牽制した。以後のイギリス社会では、ジェントリと貴族がともに gentleman と呼ばれ、政治・社会・文化などあらゆる面で主導権を握るようになる。次のヘンリー8世(在位1509〜1547)は、この方向をさらに推し進め、イギリスに絶対王政を確立した。離婚問題で教皇と対立すると、1534年に国王至上法を成立させてローマ教皇庁と断絶した。その上でみずからイギリス国教会の首長となり、イギリスにおける宗教改革を進めた。経済的には、ヘンリー8世の時代のイギリスは、アントワープ向けの毛織物輸出が急速に成長し毛織物工業が発展した。このため、原料の羊毛生産を目指した囲い込みがさかんになったが(第1次囲い込み運動;Enclosure movement)、このことは折からのインフレーションと重なって、農民に不安を与え、社会を動揺させた。

 その後、イギリスは、エリザベス1世の統治下(1533-1603)に黄金時代を迎え、後の大英帝国(17~19世紀)の礎を築いた。フランスでは、ブルボン王朝創始のアンリ4世の治世(1553-1610)から勢いを増し、ルイ14世の代に(1638-1715)最盛期を迎えた。しかし、絶対王政を維持するためには官僚制と常備軍に莫大な費用を要した。その資金を確保するために、王政は重商主義を生み出した。ここで国王がとった政策は、特定の商人団に貿易の特別許可を与えて利益を上げさせ、それを国家が吸い上げるもので、貿易差額主義と呼ばれる。その担い手の代表格が、1600年設立のイギリスの東インド会社および1602年設立のオランダ東インド会社である。重商主義のおかげで貿易が栄えた結果、商品があふれ商品経済誕生し、封建制を崩壊に導くことになった。なお、オランダの東インド会社は株式会社の始祖とされている。イギリスの東インド会社が株主の無限責任であったのに対して、オランダの東インド会社は現代の株式会社と同じく株主の有限責任制を採っていたからである。

 重商時代においては、商人が手工業生産者に原料・道具を前貸しし、生産者はこれを加工して製品化、製品は商人が独占的に買い取り、販売して利潤を得るという問屋制度(問屋制家内工業)が主流であった。この方式による生産の効率化により商人の営業が促進された。また輸出中心の重商主義貿易体制のもと貿易商の利潤も潤った。富裕化した大商人や貿易商は資本家として権力を強め、政界にも参入し国政に影響力を持つようになった。その意味では、重商主義の担い手は,手工業的家内工業を問屋制によって支配する商業資本であり,彼らは絶対主義国家と相互に依存し合いながら,流通段階から社会の資本主義化を推進した。それゆえ重商主義の時代は初期資本主義とも性格付けられる。

 イギリス・オランダと並んでフランス・ドイツも重商主義に走ったがその背景は異なっていた。しかし、その経済ドクトリンはどれも大差ない。いずれも商人たちの富と国の力との緊密な関係による共存共栄を目指していた。商売が繁盛すれば歳入が増え、国の力も増す。国の力が増せば、利益の高い交易ルートを確保できて、商人たちの望む独占を与えられる。

Ⅲ 重商主義から資本主義の誕生へ(18世紀中期以降)

 重商主義のおかげで異常と言えるほど商業が発達したが、商品経済が発展するとともに商業資本家階級と労働者階級が誕生することになった。イギリスの場合を見ると、売れ筋商品は毛織物であった。地主(ジェントリー)が農民から土地を没収し、柵で囲んで羊を飼い始めた。第2次囲い込み運動である。その結果、農民は土地を奪われ農村から追い出されたが、その農民を新しい工場制手工業(manufacture)が吸収した。工場制手工業とは、問屋制手工業とその後の工場制機械工業との中間に位置する生産方式で、生産手段を所有する資本家が、多数の手工業者を仕事場に集め、分業に基づく協業という形態で生産に従事させ賃金を支払う生産方式である。これが、労働者階級を誕生させると同時に、蓄えられた富により工場という生産手段を所有する資本家階級を誕生させた。それ以前の問屋制手工業の時代に芽生えた資本主義が、工場制手工業という生産方式を生み、やがて産業革命を引きおこすこととなった。

Ⅳ 産業革命と資本主義の確立(18世紀半ば~19世紀半ば)

 綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長と相まって蒸気機関の開発(1769)による動力源の刷新が画期的な製造業の革命をもたらした。産業革命である。これによって、大規模な工場における機械生産により大量生産を行うという工場制機械工業が成立し、資本主義経済が確立した。また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こり、それが流通革命をもたらし世界経済は画期的な変革の時代に入った。

 このように、資本主義経済は、18世紀後半のイギリスでおきた産業革命を契機に成立したが、それが社会に根付くとともに、その精神は、自由競争により利益を追求して経済活動を行えば、社会全体の利益も増大していくという思想に整理されていった。国家(政府)が介入せず市場に任せておけば、市場がうまく機能し、需要と供給のバランスが調節されて市場価格が決まり、その価格に応じて生産者が商品を生産する量や消費者が商品を購入する量が決まるという経済メカニズムが機能するというのである。この経済原理を市場経済というが、産業革命当時のイギリスの経済学者アダム=スミス(1723ー1790)は、自由主義的な市場経済を擁護する学説を唱え現代の経済学のパイオニアとなった。19世紀のイギリス資本主義に典型的にみられたように,経済的自由主義の理念に導かれた資本主義の経済は古典的資本主義とよばれる。

 産業の発達は、利益(利潤)を追求して財・サービスを生産する企業においては、工場・土地・機械などの生産手段を所有する「資本家」階級と、生産手段を持たず労働力を提供して資本家から賃金をもらう「労働者」階級とを生み出すことになった。資本主義の確立期には、農村から都市に流入する人口が多く、資本の蓄積に対して労働の供給は過剰気味で、労働者側は弱い立場にあり、過酷な労働条件を受け入れざるを得なかった。その結果、階級間の軋轢を生み新しい経済思想である社会主義経済を生み出した。

Ⅴ 国家独占資本主義(19世紀後半~20世紀前半)

 自由主義の宿命として経済には変動が伴い、好況と不況とが周期的に繰り返された。勝ち組の企業が他の企業を買収・合併(M&A)を行うことにより、資本を集中し規模を拡大していった。その結果、カルテル、トラスト、コンツェルンなどの独占体が形成され自由競争が阻害されるようになった。同時に、産業資本と銀行資本が結合した金融資本が産業を支配するようになり、独占市場が形成された。また、工場制機械工業の技術発展は過剰な生産物を生み出すことになり、企業は市場を海外に求めざるを得なくなった。それを助けるために国家も強力な軍事力によって植民地獲得に乗り出した。帝国主義の出現である。

 マルクスの社会主義経済論 19世紀後半になると、不況による失業や貧富の差の拡大といった資本主義経済の矛盾や弊害が明らかになってきた。不況・失業・貧困は資本主義の旧三悪とも呼ばれる。ドイツの経済学者マルクス(1818~1883)は、当時の資本主義を国家独占資本主義と批判し、資本主義に代わる社会主義経済を提唱した。私有財産制を採用すると資本が集中したところに独占が生ずるので、私有財産制と利潤の追求をやめ、個人や企業ではなく、国や地方公共団体・協同組合などが生産手段を公有(社会的所有)することを主張し、資本家と労働者という階級対立をなくし、すべての人々を労働者とする平等な社会を作ろうとした。

 社会主義国の誕生 社会主義経済では、国家が介入しない市場経済ではなく、国家の計画と指令のもとに商品の生産・流通・販売や財の分配が行われる計画経済が主張された。1917年のロシア革命を経て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立したことで、実際に社会主義経済が実現した。国が管理し指導したとおりに経済活動を行うので、労働者が頑張って働いても賃金はあがらないし、効率よく仕事をしようと努力する必要もない。競争がないため、より良い商品を生み出そう技術改良を加えることもないというような問題が明らかになった。実際、労働者の勤労意欲は減退し、生産性が低下して経済は停滞するようになった。さらには官僚主義による非能率的な国家運営が行われたり、一部の共産党幹部が富を独占してしまったりする事態にも陥った。行き詰まったソ連は20世紀末に解体、その後ロシアは急速に資本主義化し、今日では全面的に資本主義経済が導入されている。

 中国の社会主義市場経済 第二次大戦後の1949年、共産主義革命により誕生した中国は、1970年代末から改革開放政策(経済改革・対外開放政策)に着手し、1990年代前半からは社会主義を維持しながら市場経済を導入するという「社会主義市場経済」を導入するようになった。現在の中国は国家独占資本主義ともいうべき資本主義国に変質している。

Ⅵ 修正資本主義・新自由主義

 1929年世界恐慌以降の政府は、資本主義を前提としつつも、経済的自由を制限し国民の福祉を実現しようとしてきた。国家が市場に介入して景気変動の調整をし、社会保障などによる貧富の格差解消に乗り出したのである。このような資本主義が修正資本主義と呼ばれる。国家観でいえば、夜警国家から福祉国家( 大きな政府 )への転換である。

 修正資本主義 資本主義の基本である自由主義を、政府は何もせず市場にすべてを任せることであると解釈する思想を自由放任主義という。その結果起きたのが世界恐慌で、大量の失業者が発生し資本主義国は大混乱に陥った。資本主義というシステム自体が欠陥システムなので資本主義を捨てようという主張が共産主義・社会主義であるが、これに対して、資本主義自体は間違っていない、政府が積極的に介入することで恐慌は起きなくなると主張する修正資本主義が台頭してきた。不況が来たら、政府は公共投資を積極的に行い需要を作ってしまえば、恐慌に陥ることなく景気は再び上向くという考える現代の資本主義を修正資本主義と言う。

 新自由主義 修正資本主義を採った結果、各国の政府は大量の政府債務を抱えて財政破綻のリスクを常に抱えることになったことから、再び政府の介入や規制を撤廃し、すべてを市場に委ねようと興った考え方が新自由主義である。旧来の自由主義と違うのは、グローバル化という国境を越えた経済活動を前提とし、国内政策にとどまらず、世界的な連携による関税障壁撤廃や規制緩和を求めてゆくという点が特徴である。

 豊かな資本主義 現代の先進資本主義国においては、豊かな資本家層も存在するが、国民は貯蓄を持ち労働者であると同時に資本家であるという側面を持っており、階級間対立が避けられない成立期の資本主義とはまったく異なる形になっていることは注目に値すると言えよう。例えば日本の場合を見てみよう。皆保険制度と呼ばれ20歳以上の国民全員が加入することになっている日本の公的年金においては、加入者6700万人で保険料が160兆円以上が積み立てられている。積立金は内外の株式に25%ずつ、内外の債券にやはり25%ずつ運用されている。公的年金加入者は全員が株主である。企業年金も株式に投資をしている。さらに、保険会社は加入者の保険料を積み立て、株式に投資をしている。このように、個人は、自分では意識していないが、間接的に株式を保有しており立派に株主である。国民の貯蓄は金融市場・金融機関を介して民間企業や国の事業に投資されている。これを豊かな資本主義と呼びたい。

以 上(2022年4月4日改訂)

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